見聞読考録

進化生態学を志す研究者のブログ。

『電気じかけのクジラは歌う』

電気じかけのクジラは歌う

逸木裕・著

講談社文庫


同僚と呼ばせていただいてで良いだろうか。同じ職場に勤める同期に,音楽の進化を研究している研究者がいる。

 

私が前々から妄想し機会があれば取り組みたいと思っていた研究テーマのひとつに,私なんかより遥かに高い水準で取り組んでおられることに心から安堵を覚える。あの分野はもう,彼に任せておけば大丈夫だろう。私はただ応援するだけで良い。

 

それにしても,ものすごいハイペースで素晴らしい成果を次々に上げられている。彼の研究発表を聴くのは1年半〜2年振りだったが,一週間ほど前に聞いて驚愕した。AI を駆使して,2040 年のヒットソングを予測し,その場で聞かせてくれた。メロディだけではなく,歌詞まで生成されていた。

 

その発表の中で(ネタとして)紹介されていたのが,逸木裕さんの著作『電気じかけのクジラは歌う』である。中国語でクジラを意味する Jing という名の作曲 AI が音楽市場を席巻した未来の日本を舞台にした SF サスペンス小説であった。元作曲家の主人公・岡部数人目線で語られる物語そのものも非常に魅力的であったが,私にとっては何より,ヒトよりも優れた音楽を作曲できるようになった Jing に対し,作曲家や演奏家のような様々な立場の人々がどう対応し,どう振る舞うのか,そして一時期の混乱を経てどう折り合いをつけていくのか(言うなればどう振る舞うべきなのか)というところまで深く考察されていることにいたく感動した。実際に起こりうる近未来の話のように思えた。

 

テクノロジーが今よりさらに発達し,AI が世界に溢れるようになっても,変わらないものはある。先端的な技術を用いるに当たって最も重要な問題は,どれほど高度な技術を用いるかではない。何に対して適用するかである。科学に革命を起こし世界の見方を変えるのは,多方面に耳触りの良い波風の立たない成果などでは決してない。高い普遍性とともに奇抜さや発想の転換を備えた研究である。そういうことは昔も今も,これからも変わらない。

 

そういう物事の本質を,できれば普遍的な物事の本質を,これからも私は見つめ続けたいと,そんなことを考えていたらいつの間にか読み終えていた。気持ちの良い余韻であった。

 

見聞読考録 2022/04/21