見聞読考録

進化生態学を志す研究者のブログ。

あれから一年

東日本大震災から今日で一年が経とうとしている。
日本時間の今日14:46で地震発生からちょうど一年。あと、7時間と30分。


あのとき僕は、札幌で開かれていた学会に参加していた。突然足下が不安定になり、まるで嵐の中を航海する船の中にいるような不思議な感覚を覚えた。震源が遠そうだ、と胸騒ぎがしたのを覚えている。


でも本当に危機感を抱いたのは、揺れの直後から数分以内に8件ものメールが携帯に届いたときだ。被災地は仙台だと直感した。


その後会場がにわかに騒がしくなった。研究発表そっちのけで TV のニュースに見入り、戦慄した。千葉の家族、福島の祖母との連絡を何度も試みた。これによって僕は、仙台への帰宅手段を失い、実家への帰省手段を失い、そこから3週間の放浪の旅に出ることになる。


実際通った経路は、名古屋→京都→滋賀→長野(飯山)→長野(松本)→千葉(実家)というもの。友人を点々と頼る難民生活を送った。


そういうと、大変な出来事のようだが実際はそんなことはなく、不謹慎な話ではあるが、大きな不安にかられながらも何一つとして不自由のない、どちらかというと楽しい、感謝と感動にあふれる旅路であった。多くの人の助けがあってこそ成り立った奇跡のような旅。人の温かさに触れた、というか包み込まれた。あの時たくさんの人からもらった優しさの数々、それに見合った感謝を適切に表現できない、薄っぺらな自分の文章力がもどかしい。


直後は、北海道大学苫小牧演習林の方々にお世話になり、施設に泊まらせていただいた。そこで一晩を共にしたメンバーたるやそうそうたる顔ぶれで、学会そのものよりも刺激的だったくらいだ。学会運営委員会の迅速かつ適切な対応に感謝の気持ちが尽きない。


多くの友人が救いの手を差し伸べてくれたことで、行く場所にも困らなかった。この際、九州まで行ってやろうかと思ったくらいだ。


被災地を通り越して降り立った名古屋セントレア。ちょうど福島第一原発の3号機が爆発し大騒ぎになっている中での移動だった。落ち着く間もなく京都に向かう。琵琶湖の側に立つ京大の生態研センターで学ぶ友人は、急な訪問に一も二もなく応じてくれた。琵琶湖博物館の展示物は、緊急事態の緊張感をほぐしてくれた。


関西圏から、仙台の友人に指示を送って山形に逃がしたときには、新潟の友人に迎えに行ってもらった。おかげで逃がした友人にはまるで救世主のごとく崇められたが、一方で僕はその新潟の友人に頭が上がらない。


前にいた信州大学の先生や友人にも助けてもらった。卒業式典にも参加させてもらった。東北大学での修士課程終了をまさか信州大学で祝われようとは夢にも思わず、胸が熱くなった。
実験もさせてもらった。PCR をしている状況をあれほどまでに幸せに思ったことはない。ピペットマンを握りしめて 1.5ml チューブに試薬を添加する退屈な作業をあんなにも幸せな気持ちでこなすなんてことは、それ以前にもこれから先もないだろう。


感謝の捌け口を求めて、被災地へボランティアに行ったりもした。6月の岩手県大槌町。一面の焼け野原を見た。


その後も度々、被災地へ足を運ぶ機会があった。3月(塩竈・松島)、6月(大槌)、7月(塩竈)、11月(塩竈・松島)、12月(野蒜・奥松島)。つい先日2月22日にも、野蒜・奥松島へ行ってきた。干潟の生物を調査する調査地を探すためだ。何度見ても慣れることのない、胸の痛む光景が未だに広がっていた。元のような活気が戻るのはまだまだ先のことだろう。



石垣の下部が湿っていた。満潮時にはそこまで海水に浸かったのだろう。海面近くに見えているカキが、震災以前の満潮時の海水面を示してくれている。目算だが、50センチメートル以上は地面が沈んでいた。そのせいで最干潮時に行ったにも関わらず、水が引かない。多くの場所で干潟が消失していた。



津波に破壊された防潮堤。防潮扉は蝶番を壊され反対側に開いてしまっていた。



海岸近くに転がるもの言わぬスピーカーの残骸。震災時にその役割を全うしたのだろう。とても印象的な光景だった。


あれから今日で一年が経とうとしている。
驚くほどに時の流れの早い一年だった。もう一年も前の出来事とはにわかには信じられないほどに。


あと、5時間と36分。黙祷を捧げる。


見聞読考録 2012/03/11