見聞読考録

進化生態学を志す研究者のブログ。

日常英語

こんなメールが来た。

 

"Hi something has come up will visit at 1pm if thats ok"

 

英語は,主語・述語・目的語の順で並びます。なんて習ってきた我々には,極めて難解な英語に違いない。

 

省略のない本来の英文に書き直すと,下記のようになる。

 

"Hi, something has come up. So I will visit at 1pm if that is OK for you."

 

急用ができてしまったので,(予定を遅らせて)午後1時に訪ねようと思うけど良いかしら? と,そういうような意味だ。

 

主語がない。ピリオドもコンマもない。しかしこれが普段,カジュアルな場で使われる英語なのだ。我々が中学・高校・大学と,何年も何年もかけて習ってきた英語など,ほんの基本に過ぎない。我々が日常会話で主語を省略するように,英語の文章だってたくさん省略され,応用されているのだ。

 

我々日本人は年代にもよるが例えば,義務教育だけでも三年,高校も含めると多くの人々は六年に渡って,英語に触れてきたことになる。以前は高校だけという時期もあっただろうが,最近はもっと若い小学校高学年頃から学び始めるようだ。さてしかし,それ相応の実力が伴っているヒトは,どれほどいるのだろう。私に限って言えば,中学・高校・大学と,かれこれ十年以上の月日をかけて英語を学んできたが,恥ずかしながら相応とはほど遠いと言わざるを得ない。特に,会話の文章を組み立て,発言する能力に至っては,壊滅的と日々感じている。

 

何しろ日本の英語教育では,会話を通した訓練はほとんどなされない。文法を習って,単語を覚えて,文章を読んで,かろうじて書き始めるようになったくらいに大学受験を迎えることになる。これじゃあ屁の役にも立ちゃしない。六年もあって,情けない。

 

本来ならば,ネイティブでも間違えるような細やかな英語の文法などを習っている場合ではなかったのだ。言語とは,使えてこそ生きるもの。実際に海外に出て使い物にならなければ,海外の人々とのコミュニケーションツールとしてはちっとも役にも立たない。今思えば,受験のためにあるような義務教育の英語など,貴重な時間の浪費に過ぎなかったとつくづく思う。ああ,私はどれほどの意義ある時間を,学校という牢獄のようなシステムに投じてしまったのだろう。特に初等教育に嫌な思い出しかない私としては,十年近い時間を不当に奪われたという感覚しか残っていない。同年代の子どもを狭い教室に閉じ込めて,本人の意志の届かぬ高みから一方的に指図をし,何年ものあいだ無理矢理に従わせるのだ。服役中の罪人と大差ないではないか。特有の環境に馴染めた人々はまだ良い。酷いいじめにあったり,心に癒えない傷を負った人々はどうすれば良いのだろう。ヒトの生きられる短い一生の中において,十年もの歳月を奪った大罪を,いったい誰が償うのだろうか。

 

日本人は勤勉であると,良く耳にする。果たしてそれが本当かどうかはさておき,もしそうだったと仮定しよう。その勤勉さは,上手くいけば強力な武器になるだろう。しかしもし,上手くいかなかったらどうだろう。勤勉さを発揮する方向を,そもそもの目的地設定を間違っていたとしたら,どうなるだろう。勤勉にコツコツと積み重ねた努力や時間が報われることはあるだろうか。

 

いや,ない。

 

そう,ないのだ。

 

そんなことはない。頑張った努力は,いつか思わぬところで自分に報いるはず,という方もいるかもしれない。むしろ義務教育で出会った教師は皆,口を揃えてそう言っていたように記憶している。

 

だからこそ,あえて声高に言っておきたい。

 

報われることなど,ない!

 

いつかどこかで,なんていう都合の良い詭弁で,子どもらを煙に巻くんじゃない!

 

少なくとも,そう思っておいた方が良いのだ。なぜなら,同じだけかけた労力を正しい目標に向けていたら,いつかどこかでと言わず,確実に得られるものがあるからである。

 

失敗することは当然ある。研究に例えれば,私など失敗ばかりである。しかし,計画の段階で防げる失敗と,そうでないものとの差は大きい。常に頭を働かせて,目的を見失わないようにしないと,全てを棒に振ることになる。

 

ここまで,日本の教育を例に話を進めてきたが,同じ問題は日本ではありふれている。職場の無駄な会議,必要のない理由書,役場の冗長な手続き,無意味な前例主義,非効率な縦割り。各々が好き勝手に,過去の栄光にしがみついた利権や,しょうもないプライド,くだらない礼儀作法や,負う必要のない見当違いな責任ばかりを気にして,日本はこのところ何も進歩がない。頭の悪いジャイアンみたいな声の大きいだけが取り柄のような愚者が,自らの保身のために政治力を発揮して,ヒトの足を引っ張り合うだけの日々を,国全体で無為に浪費している。控えめに言って,馬鹿みたいだ。馬鹿の国だ。

 

ヒトの持つ時間やエネルギーは有限である。有限な資源を,正しく割り振らなければ,得られるものなど何も残らない。ちょうど日本の英語教育のように。

 

 

見聞読考録 2019/10/21