見聞読考録

進化生態学を志す研究者のブログ。

バイカル湖のこと

バイカル湖は海のようだった。安直なようだが、他により適当な例えが見当たらない。
岸に打ち寄せる白波は、松島の海岸に打ち寄せるそれよりも高かったかもしれない。対岸が見えないほどの途方もない広大さは、瀬戸内の海よりも広々としていただろう。世界最深を誇る深さは、東京湾と比較してもまだ深い。


調査中も、幾度となく海にいるような錯覚に陥った。降りかかる波しぶきに塩辛さがないことに驚き、岸際に生える抽水植物に目を見張る。ほんのりと潮の香りが漂っているような気にさえなった。


今年はずいぶん、いろいろな湖沼を巡った。
青森県小川原湖/姫沼では、どでかいイケチョウガイに遭遇した。厚岸町厚岸湖には、一面をウミニナに覆われた立派な干潟があった。釧路湿原の湖沼群(達古武沼/塘路湖シラルトロ湖)、幾何かの火山湖(屈斜路湖/阿寒湖/倶多楽湖/大沼)、汽水湖能取湖/濤沸湖)、高地の湖沼(然別湖/空沼岳・真簾沼)、離島の湖沼(利尻島・姫沼など)など、北海道の誇る大小様々な湖沼を調査した。
そのどれもに特有の景観があり、貴重な自然があり、多様な生物があり、にじみ出る個性があった。


だが、バイカル湖から溢れ出る個性は、そのどれとも似ても似つかない。3年前に訪れた琵琶湖とも、昨年訪れたモンゴルのフブスグル湖ともまったく違う、強烈な個性だった。
そしてそれは、そこに棲む固有の生物群によるところが大きいと、僕は思う。


最初に網を上げたときの胸のときめきを僕は一生忘れないだろう。得体の知れない生き物を手にしたときの、懐かしい感覚だった。
生来の生き物好きが高じて、気づけばこの歳になっても生き物のことばかり考えている。生き物に関するいろいろなことを学び、いろいろな疑問を究明しようと努めてきた。一方で、どこか冷めた目で生き物を目にしていたような気もする。懸命に虫網をふるって、蝶や甲虫を追いかけていたときの、あのなんともいえない高揚感を久しく忘れていたのかもしれない。


網の底にうごめいていたのは、ヨコエビだった。少なくとも基本形態はヨコエビとしか思えない。だが、なんという鮮やかな色合いだろう。それにとんでもなく大きいものもいる。赤を基調とした美しいもの、全身青一色のもの、焦げ茶色の地味なもの。緑と黒のストライプのものは体長3cmはあった。この小さな種は、パンダ柄だ。明るい黄色に黒い斑点をつけたものは身体中にトゲまで生やしている。


夢中になって網をふるい、石を起こした。


しばらくすると、いくつかの種には特有の生息環境があることがわかってきた。
岩の割れ目には、焦げ茶色の地味な種が高確率でひっついていた。大きく広がった背面の各体節には板状の張り出しが見られ、全体的にゴツゴツした印象を受ける。茶、黒、黄土色をまぶしたような斑模様は、まるで湖底に散乱する花崗岩の色を模しているかのようだ。
明るい黄色地に黒い斑点模様のトゲトゲは、緑藻の中に棲む。身体中に生えるトゲは、どうやら藻に身体を絡ませるのに一役買っているようだ。明るい黄色や黄緑色の体色も、光の当たる環境に生息しているならば納得がいく。
抽水植物の根元には、黒と灰色のストライプ模様が特徴的な小さな種がたむろしていた。身体の側面を植物に寄せると、まるで何かがひっかかったかのようにひっついて離れなくなった。
こんなものを見せられては、「適応放散」や「生態的種分化」の仮説を提案したくもなるだろう。詳細はともかく、説明したい現象はよく分かった。


他にも、淡水貝や変な柄のプラナリア、ミミズと思しき生物、体長 5mm 程度しかない小さなヒルを採集した。なんとも不思議な顔ぶれである。まずもって水生昆虫や広域に分布するモノアラガイの類いがほとんどいない。それらの居場所は残されなかったのだろうか、目につくものといえばトビケラくらいで、あとは見るも珍しいものたちで席巻されていた。加えて、淡水貝はともかく、プラナリアもミミズもヒルも、みんな一見して瞠目するような見たこともないものばかり。これでもか、と言わんばかりの比類なき個性である。


しかしやはり有名な湖とあって、バイカル湖の生物群については、進化生物学的な研究がずいぶん盛んに行われているらしい。僕が感動したヨコエビにいたっては、現在 360 種ほどが記載され、その遺伝的・生態的な知見も蓄積されつつある。中には、まるでオキアミのように沖合で一生を過ごすものや、深海ならぬ深湖でのみ生息する体長 10cm ほどのものなどもいるというからすごい。また、そのヨコエビを餌にするカジカの仲間も適応放散を起こしており、30 種ほどが様々な環境に生息しているとか。


僕がもし、バイカル湖の生物を研究をできることになったら、今ならまずヒル類から始めるだろう。今回目についただけで、素人目に見ても3種。緑や黒の体色は、宿主となるヨコエビ種の体色に合わせているのだろう。宿主はヨコエビや魚類であるとのことだが、きっとそれぞれの宿主に対応して、適応放散しているに違いない。これはきっと面白くなる、と2種目をみつけたときに直感した。


波に打たれふらふらになりながら重い石を掬い、水浸しになりながら目を凝らし、やがて手先がしびれてついに指が動かなくなったとき、僕らはようやく帰路についた。遅い夕陽が辺りを橙色に染め上げる午後八時。人生で初めてバイカル湖を拝んだ日の出来事である。


見聞読考録 2014/09/29