見聞読考録

進化生態学を志す研究者のブログ。

心のノートに対する批判

さっき、ラボの先輩と夕飯を食べて来た。
最近、ラボ内、というかその先輩との会話がアツい。


今日の議題は、「批判とは、どのようにされるべきか」。
例によって研究絡みのディープな議題。

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人によっては、人生をかけて研究をしている。
だから、言葉を選ばずに研究を批判することは、その人の人生をも批判し、精神的に傷つけることになりかねない。


いやいや、人生をかけて研究をしているからといって、批判者が言葉を選ばないといけない道理はない。
批判が研究そのものに向けられている限り、それがいくら厳しいものであっても良いはずだ。
例えば、「あなたの研究は全く意味のないものだ」という意見があったって良い。


研究には研究者個人の自然観・世界観が少なからず反映される。
それと研究とを切り離せないことだってある。
切り離せない可能性を考慮して発言しないと、ケンカになってしまうかもしれないだろう?


それでも批判は厳しくされて良いはずだ。批判の内容が真っ当なものである限り。
厳しい批判抜きにして、科学の発展はあり得ないだろう?


そもそも今この時代、厳しい批判をする人間が少なすぎるんだ。
人間関係だとか、アカハラだとかを気にしすぎて、なされるべき批判がなされずにいるんじゃないのか?
だから、精神的に未熟な若者が世に送り出されるんじゃないのか?
だから、実力の伴わない Ph.D が大量に生産されるんじゃないのか?
だから、絶滅を回避する形質が進化するみたいなナンセンスなことを言い出す輩が不当に台頭するんじゃないのか?


云々。

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そんな楽しいお食事から帰って来て、ふと目に留めたとあるブログのエントリー
まさに、「真っ当な批判」を体現していた。


議題は、「心のノート」。
僕は初めて聞いた(あるいは忘れてしまった)のだが、2002年に初めて発行され、一度廃止された、事実上の国定教科書、とのこと(Wikipedia 参照)。
それがまた復刻したんだとか。


以前から、批判もかなりあり、議論の絶えない教科書であったようだ。
Wikipedia によれば、
・記述が誘導尋問的である
・「感じる」という面が強調され、「考える」面が少ない
・検定を経ることなく、国からの上意下達で配布された
など、いくつかの問題点が指摘されている。人によっては、「思考停止装置」と呼ぶ人もいるらしい。


さて、そんなブログのエントリーの内容の一部を以下に抜粋。

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タイトル:心のノート 2


(前略)


動物の行動を人間の倫理観や道徳観と結びつけてはならない、生物学の事実や解釈をもとにして、人間の倫理観や道徳観を導いてはならない−これは進化生物学や行動学の初学者が必ず学ぶ原則です。
過去には社会ダーウィニズム優生学などのように、人間とそれ以外の生物を、共通の倫理観、価値観の下に結びつけようとした結果、社会を不幸に陥れた歴史があります。ナチス政権下で行われた迫害と人種差別は、その典型的な例です。


(中略)


そもそも自分は、自然を大切にしよう、とか、動植物を大切にしよう、ということを、道徳や倫理観として子供に教えるのには反対です。こうした意識は、むしろ子供たちが自然とのかかわりの中で、自発的に育む感覚であるべきです。
それをどうしても子供に教えたいのなら、教室で文章なんか読ませたり考えさせるより、子供を海に連れて行って泳がせたり、森のなかで自由に遊ばせるべきです。あるいは、理科で生態学や進化、あるいは博物学的な内容を、もっと時間を取ってきちんと教えるべきです。
むしろこのように、倫理、道徳として天下り的に教えられた自然観は、誤ったエコファシズムを生み出す元になるのではないかと危惧します。
人間とそれ以外の生物は、きちんと区別すべきです。道徳や倫理が適用される範囲は、人間ないし人間の比喩としての非人間、またはその代理と見なすことが自然な非人間に限定すべきでしょう。
ナチスが自然保護に熱心だったこと、そして動物保護法や国家自然保護法を制定し、動物の虐待を禁止する一方で、人間の虐殺を行ったことを認識しておく必要があります。また、人間の虐殺が起きた要因として、人と動物の区別が曖昧になったためではないか、という指摘があることも。


研究雑録 2013/03/15

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おおお!


批判というのは、こう筋道立ててなされないと!


しかし、この現代日本が、未だにこんなに野蛮な初等教育を行っているとは、嘆かわしい、を通り越して呆れてしまう。
歴史に学ぶ、ということがなんでできないのかねぇ。。


こういう真っ当な意見は、もっともっと多くの人の目に触れたほうがいい。
できれば、「心のノート」に賛成する立場からの真っ当な意見にも触れられれば、もっと良いのだが。


綺麗事を並べて人を欺く有害な人間に対する抵抗力を、できるだけ多くの人が身につけなければいけない。
ただ声が大きいだけで意見が通るというような愚かなことが、まかり通っていいはずがない。


「真っ当な批判」とは、そういうような「愚かなこと」を回避するために、必要不可欠なツールでありプロセスなのだ、と僕は思う。


見聞読考録 2013/03/15